私の名前は熊田久真子。
小さな会社で働いている。
鮭とパスタと、
ちょっとお酒が大好きな、
普通の女子だ。
友達のプレゼントを買うため、
久しぶりに渋谷へ来た。
東京で暮らし始めて、もう6年。
渋谷はあまり詳しくない。
地下鉄に乗っちゃえば多分着くし、
道に迷っても
スマホがなんとかしてくれる。
でも…
昔は、ちょっと怖かった。
改札を抜けた瞬間、
あの景色が目に入る。
スクランブル交差点の雑踏が
ふと大学時代を連れてきた。
― 釧路から上京して、
北千住で一人暮らしを始めた頃。
駅は人でいっぱいで、
案内板はどれも難しく見えた。
電車に乗るだけで緊張したし、
改札の音にまでビクッとしてた。
大学は全国から人が集まっていて、
誰もが”都会慣れ”してるように見える。
言葉は通じても、
育った場所の空気が違えば、
会話の温度は微妙にずれる。
自分が“田舎から来た”ことを
そっと背負っているようで、
なんとなく、ぎこちなかった。
でも私にとって北千住での生活は、
世界がコンパクトに
まとまってくれてる感じがした。
それが変わったのは、
友達に誘われて、
初めて“渋谷に遊びに行った日”。
「ねえクマ子」
「渋谷行ってみようよ」
軽いノリで決まったはずが、
電車を降りた瞬間、世界が変わった。
まず目に入ったのは、
テレビでよく見る
“あの”スクランブル交差点。
「わぁ…本物だ」と、思わず胸が高鳴る。
でも感動は一瞬で、
次に押し寄せたのは”圧倒的な人の量”。
信号が変わるたび、
大群衆が一斉にこちらへ迫ってくる光景に、
足の裏がゾワっとした。
巨大な広告を背負ったトラックが
大音量で走り抜け、
胸の奥がビリビリ震える。
え、何これ…怖っ
街全体が叫んでるみたいな轟音で、
心がザワザワする。
空気は下水と油と香水が混じりあって
呼吸するのもためらうほど、臭い。
なんて臭い街なんだ…、渋谷。
足元の道は黒ずみ、壁は落書きだらけ、
どこも人と情報がうるさい。
休憩しようにも、
落ち着けるような店すらない。
結局私たちは逃げるように、
目に入った喫茶店へ駆け込んだ。
ここしか、
席が空いてそうな店がなかったから。
でもメニューを開いた瞬間、
心臓が止まりかける。
・コーヒー:880円
・カフェラテ:980円
え、嘘でしょ…?
釧路の倍どころじゃない。
しかも店内を見渡すと、
誰一人“喫茶店らしい過ごし方”を
していない。
みんなノートパソコンを広げ、
眉間にシワ寄せながら仕事をしてる。
喫茶店って、こんな場所だっけ…?
そう思った瞬間、
隣の席が急にざわついた。
スーツ姿の男がノートPCを開き、
対面に座った若い男性へ淡々と…、
攻撃力のある声で話しかけた。
「まず前提のすり合わせから入る」
「数字だけ追っても意味がない」
「構造を見ろ」
(……え…、なんか難しい話?)
さらに男は続けた。
「KPIの再定義が必要だ」
「ボトルネックは可視化できてるのか?」
「君の“意思決定スピード”が遅い」
「すみません、神沼さん…」
「明日までにプランを練り直します」
(なんか…、いじめてる??)
あの日、
私は渋谷の空気に圧倒されたまま
味のしないコーヒーを
飲むことになった。
― さて、友達のプレゼントも買ったし。
このあと、どうしよっかな…。
せっかく渋谷まで来たし、
お昼時なんだよな…。
でも…
やっぱり私は”この街の匂い”が嫌いだ。
お昼は北千住に戻ってから食べよう。
東京で暮らし始めて、もう6年。
東京は疲れるって思ったのは、
友達と渋谷へ遊びに行った
“あの日”が初めてだった。






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